阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)-vol.5
2022.12.29
2021年4月にMediumにて掲載した文章を数回に分けて,再掲載します。
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さらに,華厳宗の第三祖である法蔵は,華厳哲学の大成者であり,まぎれもない中国の思想家ではあるが,始祖の杜順,第二祖の智儼が漢民族であるのに対し,ソグド人なのである.古代イラン文化のこころが色濃い血となって流れていたのであろう.そうであれば,「華厳経」の「光」の世界像に対する彼のあの異常な傾倒をゾロアスター教的「光」の情熱の密かな薫習に結びつけて考えることも,あながち荒唐無稽な想像ではないだろう.また,プロティノスが華厳の影響を受けていたことが本当だとすれば,華厳はプロティノスを通して,イスラーム哲学にも,中世ユダヤ哲学にも,初期キリスト教にも深く関わってくることになる.イスラーム哲学,特にスーフィズムはプロティノスの強い影響の下に発展した思想潮流であり,タルムード期以後のユダヤ哲学の史的展開もまた,プロティノスを抜きにして考えることはできない.ユダヤ教神秘主義の主流をなすカッバーラーなどに至っては,それの基礎経典である「ゾーハルの書」の「ゾーハル」が元々「光暉」を意味する語であることからも分かる通り,根本的に「光」のメタファの形而上的展開である.初期キリスト教のアウグスティヌスもプロティノスの影響を相当受けていたとされており,その後,キリスト教神学に取り入れられた.
華厳の「事事無礙」的思想を一つの普遍的思惟パラダイムと考えるならば,それが東西の哲学の至るところ,歴史的に何の親縁関係のないところまで,様々な形を取って現れてくる.それだけでなく,史的親縁性の複雑に錯綜する網が,それこそ重々無尽の「事事無礙」的に張り巡らされているのではないだろうか.
そうであるなら,私の役割は華厳の「事事無礙」的思想をもとに, 茫洋たる大海のごとく涯なく広い東洋思想に一つの筋を通した上で,東西の別なく一つの哲学を構築していくことではなかろうか.また,文献学的な方法だけでなく分析哲学などの方法も併せて用いたいと思っている.その上で,戦争哲学等まで幅広く扱いたい.
となると,自分がこれからやらねばならないことは,自然と見えてくる.一つは,僧侶としての仏法修行である.こういった東洋の修行体験と古代ギリシャのVita Contemplativaとの類似性も特筆に値するだろう.Vita Contemplativa,今の研究者の主流な訳は「観照的生活」であろうか.ただ井筒氏は「脱自的体験」と訳した.脱自的体験とは,身体から魂が抜け出すような脱自的な瞑想的体験のこと.プラトンが哲人政治を理想として挙げたのも,このVita Contemplativaにより,理性の光を当てて物事を見ることができる力を持っていると考えられたからである.つまり,学問に励むだけでなく,併せて修行も行わなければならないのだ.