阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)-vol.6
2022.12.30
2021年4月にMediumにて掲載した文章を数回に分けて,再掲載します。
vol.6---
では,もう一方の学問はどのようにやっていくのか.仏教や華厳哲学の専門書を読むというわけではない.まずは,哲学における基礎訓練である,語学や論理学にじっくり取り組みたい.昨年はその一環としてフランス語を徹底的に訓練した.ロシア語,スペイン語にも触れた.しかし,まだまだ取り組まなければならない言語は多い.古代ギリシャ語,ラテン語,サンクスリット語,パーリ語,聖書ヘブライ語,ペルシャ語,アラビア語,ドイツ語ととにかく多い.これらの語学を涵養しつつ,数理論理学にも取り組む.さらに,四書五経をはじめとする和漢の書を読み,古代ギリシャ哲学やキリスト教神学についても少しずつ触れていきたい.
奈良の古寺は,当時最先端の学問であった仏教哲学を学ぶ場所であった.古代ギリシャでいうところのアカデメイアにあたるものである.また同時に,全ての生命の繁栄を願う場所でもある.
頭山の生き方の根本をなす「殺身成仁(身を殺して仁を成す)」の気概もまた,お釈迦さまが衆生のために自らの身命を軽んじたこととも非常に近い.
やはり自分自身もそうでありたいと思う.
最初に出てきた,明恵上人の伝記には,「仏法修行はけぎたなき心あるまじきなり.武士などはけぎたなき振舞しては,生きても何かせん」とある.
いい加減な生き方をしていては,生きていても意味がないという意味である.自分のあるべきようをしっかり見つめ,天子様に恥じることのないように生きたい.
頭山満は,「一人でも寂しくない人間になれ」とよく言っていたらしい.それは単純に「孤独に打ち勝て」ということではなく,一人ひとりが自らの内部から「光」を発せよ,という意味だったとのこと.ここでも「光」のメタファが出てくるように,華厳経の毘盧舎那仏のように自ら光を発する人間になって,一切衆生を導けるような存在になりたい.