阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)-vol.3
2022.12.27

2021年4月にMediumにて掲載した文章を数回に分けて,再掲載します。
vol.3---
では,この井筒俊彦氏とはどういった人物なのか.井筒氏は30以上の言語を自在に操れる人物であった.また「東と西との生きた思想的対話の場を作り出すことができたなら」と願い続けていた.それは現在,科学は一つの文化や文明に属しているわけではない.科学には国境というものが存在しない.それであれば,哲学もそのようになれるのではないか.そういう思いだったのだろう.また井筒氏はギリシャを含むギリシャ以東を東洋だとした.これは,大アジア主義のアジアの範囲と非常に近い.その中で,東洋の哲学という一本の筋を通そうと試みた人物であった.この井筒氏の著書と出会い,私のアイデンティティの一つである,華厳哲学がこの東洋思想をまとめる上で非常に重要なファクターになり得る可能性を見出すことができたのである.
華厳哲学の大きな特徴は「事事無礙」と呼ばれる,経験的世界のありとあらゆる事物,事象が互いに滲透し合い,相即渾融するという存在論的思想である.これは華厳あるいは中国仏教だけに限らず,世界の多くの哲学者らの思想において重要な役割を果たしてきた普遍的パラダイムである.後期ギリシャ,新プラトン主義の始祖であるプロティノスの脱我的存在ビジョン,また西洋近世のライプニッツのモナドロギーなど東西の別を超えて顕著な例を見出すことができる.その中でも,プロティノスの「エンネアデス」と「華厳経」の異常なまでの類似はこれまでも指摘されてきた通りである.ここで,参考までにその例を示しておく.
「あちらでは,すべてが透明で,暗い翳りはどこにもなく,遮るものは何一つない.あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ.光が光を貫流する.ひとつ一つのものが,どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており,同時に一切のものを,他者のひとつ一つの中に見る.だから,至るところに一切があり,一切が一切であり,ひとつ一つのものが,即,一切なのであって,燦然たるその光輝は際涯を知らぬ.ここでは,小・即・大である故に,すべてのものが巨大だ.太陽がそのまますべての星々であり,ひとつ一つの星,それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら),しかもすべてが互いに他のなかに映現している」(Plotini Opera Ⅱ, ed. P. Henry et H.-R. Schwyzer, Paris, p.384)
