阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)-vol.2
2022.12.26
2021年4月にMediumにて掲載した文章を数回に分けて,再掲載します。
vol.2---
では,なぜ聖武天皇がここまでの一大プロジェクトを行おうとしたのか.一般的に権力者が大きな像を建立したりする場合,その動機は自分の権力を示すためというものが多いだろう.しかし,聖武天皇の動機は決してそのようなものではなかった.それには,当時の状況を振り返る必要がある.聖武天皇が即位していた時期は,旱魃,飢饉,天然痘,地震,そして皇太子の死といったことが相次いで起こった.このようなことに対して,聖武天皇は「責めは予一人に在り」と言ったのだ.このような天災も全て,自分の治世が悪いから起っているとして,責任を感じていたことがわかる.聖武天皇の詔には詳細な思いが示されているが,それについては後日,別に書くこととする.
そして,大仏建立後,天然痘も急速に収束していき,太平安穏な時代を迎えることとなった.それから時が過ぎ,奈良時代最後の天皇である光仁天皇の頃になると,また天変地異が起こり始めるようになる.この時,光仁天皇が出された詔には,「よく顧みれば,朕の不徳の致すところかもしれないが,その責任は仏教界にもあると思う.聞くところによると,僧侶らは俗界の人々と何ら異なることのない生活をしている.僧侶が自らを律しなければ誰が律するであろうか.」と,仏教界を痛烈に批判している.従来,天変地異が起こったときには,まず天皇が自らの不徳を恥じ,ひたすら仏門にすがるというのが通例であった.この詔にみられるような仏教界に対する批判的な姿勢は初めてのことである.それだけ,仏教界が乱れていたのであろう.
そうすると,当時の天変地異の状況と,現在のCOVID-19の蔓延,地震などの災害を重ねてしまいたくなるのは僕だけであろうか.
実際,現在の僧侶の多くは俗界の人々と同じような生活を送っているのではないだろうか.とすれば,現在の状況は政を行なっている政治家などにも大きな責任はあるだろうが,仏教界にもその責任の一端があることは認めざるを得ないと思う.やはり僧は僧のあるべき様を保つことが重要なのだ.
つまり,自分の「あるべきよう」とは,聖武天皇と光仁天皇が示されたように,僧侶として自分を律して生きることなのだと思う.
私は福岡が地元ということもあり,10代の頃は自由民権運動に端を発した玄洋社の大アジア主義に傾倒していた.大アジア主義というと,大東亜共栄圏を想像する人もいるだろうが,この二つはまるで別物だということをご理解いただきたい.例えば,福澤諭吉先生が「脱亜論」を説いたのに対し,玄洋社はアジア諸民族が平等な立場で連帯して発展すべきだとする「興亜論」を説いた.つまり,朝鮮や台湾を植民地化するのではなくて,国と国を横の関係を通して深く結びつけ西欧に対抗するというものであった.そして,この大アジア主義というのは本来,単なる政治的思想ではなく,哲学,宗教,芸術によって裏打ちされた共存の哲学なのである.実際,玄洋社の中心人物である頭山満の近くにいたのが,アブデュルレシト・イブラヒムという,後述する井筒俊彦氏とイスラーム世界を繋いだ人物である.また,この大アジア主義の意味するアジアの範囲はギリシャ辺りから,アラブ地域までも包括するものであった.
