阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)-vol.1
2022.12.25
2021年4月にMediumにて掲載した文章を数回に分けて,再掲載します。
vol.1---
先日,4月3日に21歳の誕生日を迎えた.僭越ながら,これからの抱負を含め,少し記したいと思う.
以前,友人から,二十歳になって変化したことを聞かれたことがあった.自分にとって最も大きな変化は,僧侶・宗教家として生きる覚悟ができたことであろう.
それはつまり,自分の「あるべき姿」を受け入れたことに他ならない.
タイトルの「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」とは,明恵上人の以下の言葉からである.
「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり.
僧は僧のあるべき様,俗は俗のあるべき様なり.乃至帝王は帝王のあるべき様,臣下は臣下のあるべき様,此のあるべき様を背く故に,一切悪しきなり.」
つまり,俗世界の人間が,皇族と同じ生活をするわけにはいかないし,また皇族も俗世界の生活はできないのである.それは,何も皇族と俗世界という関係だけに限った話ではない.人は皆それぞれ,天から与えられた本分がある.実際,政治のプロでも,外交のプロでもない軍人が,それらに口出しするようになったことも,戦争に突き進んだ要因の一つであることは違いないだろう.
では,自分の「あるべきよう」とは何かについて,述べたいと思う.
私は,奈良の大仏で有名な華厳宗・東大寺の末寺の長男として生まれた.そして,16歳の時に東大寺で得度した.ただ,得度したとは言っても,まだ僧侶として生きていくことなど考えてもいなかった.信西が詠んだように「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」という気持ちであった.この東大寺の存在が,自分の「あるべきよう」を知る上で重要な存在となる.
ここで,東大寺の成り立ちについて振り返ってみる.聖武天皇は東大寺の前身である金鐘山寺において,新羅の僧,審祥に「華厳経」を講義させた.この審祥の講義を聴聞した聖武天皇は「華厳経」のシンボルとしての大仏建立を発願したのである.アジアとの結びつきは後ほど触れるが,大仏開眼供養の導師はインド僧,講義をしたのは新羅人の審祥,建立に参画した玄昉その他も朝鮮半島系の血を受けており,そもそも華厳経を持ってきたのは,漢族の道璿である.当時の日本はじつに国際色豊かで,大仏建立には日本だけでなく,アジア全体の力を借りて成し遂げられたことがわかる.
